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● 武田家再興への道筋~松姫と香具姫~
天正10年、武田家滅亡時、信玄公の息女松姫様は、3人の幼い姫達を連れて八王子へ逃れました。その一人が小山田信茂の娘(実は孫娘)香具姫でした。
松姫の逃走経路については、諸説ありますが、小山田氏の裏切りがあったとする場合と、なかったとする場合では、見方が変わってきます。小山田氏はむしろ松姫達の警護をしたと
考えられます。
さて、松姫に大切に育てられた香具姫は、後に徳川家の江戸屋敷で育ち、磐城平藩主内藤忠興に嫁ぎました。二人の男子と女子が生まれました。
一方、武田家では信玄の二男・竜宝の系統は、他家に仕えることなく存続していました。その子と孫は、大久保長安事件に巻き込まれ遠流となりました。子の信道は亡くなりましたが、孫の信正は、寛文3(1663)年武田遺臣の働きで赦免されました。
江戸に帰った信正は、香具姫の嫁ぎ先である内藤家の江戸屋敷で庇護されていましたが、間もなく忠興と香具姫の孫娘を娶り、信興が生まれました。
武田信玄と小山田信茂の血をひく武田信興は、名家の子孫のみが許される徳川家の表高家として、信玄と同じ大膳大夫の官を賜りました。武田家滅亡から118年目の元禄13(1700)年、武田本家の血筋が再興されたのです。これが、小山田信茂の切なる願いでありました。
●その後の小山田氏
天正10年3月14日、信茂は、母と妻子のほか一族や重臣を連れて、武田家の存続を許すという織田信忠の返答に賭けて、甲府善光寺に出向きました。3月24日、信茂は自刃し、同行した者達は全員殺害されました。
信茂の長男・信綱は、北条氏直に仕え、小田原落城後は結城秀康に仕え、後に徳川家旗本となりました。信綱の系統は後に南部藩に仕えますが、再興武田家とは明治期まで交流が続いていました。
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